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(5) 御朱印について
朱印をしない理由 (真宗大谷派東本願寺)

 





上掲の「真宗本廟教化リーフレット」に書かれた文言です、

 そんなに古い歴史をもつわけではありませんが、参拝した記念に朱印を押してくれるところが数多くあります。寺の名前や仏教の言葉などが添えられる場合もあります。
 回ったお寺の数だけ朱印が増えていくことは楽しみでありましょう。また、八十八箇所とか三十三所というように決められた場所をすべて回ったときには、何らかの達成感があることもわかります。
 でも、ちょっと待ってください。お寺とは朱印を集めるためにお参りするところなのでしょうか。それならば、一度朱印をもらえば、二度とお参りすることはないでしょう大事なのはお参りしたことがあるかどうかではなくて、お参りして教えに出遇(あ)ったかどうかです。また、どんな教えに出遇ったかということであるはずです。
 浄土真宗の宗祖である親鸞聖人は、師の法然上人との出遇いをとおして、生涯を「ただ念仏」の教えに生きられた方です。それは念仏を称える時、どんな者も決して見捨てることのない仏の世界が、いつでも憶い出されてくるからでした。逆の言い方をすれば、貪(むさぼ)りや憎しみの心に翻弄(ほんろう)されて、何が大切であるかをすぐに見失っていく自分であることをよく知っておられたからでした。
 私たちはどうでしょうか。一度お参りしたから大丈夫とか、教えはこの前に聞いたからもう聞かなくてもいい、などといえるでしょうか。さまざまな問題が次々と起こってくる状況の中で、何を本当の拠(よ)りどころとして生きていくかが、いよいよ問われてきているのが現代です。お寺を回ったというような達成感に腰を落ち着けてしまうのではなく、教えを聞き続けようと立ち上がる必要があるのではないでしょうか。

                                               一楽 真 大谷大学助教授

当研究所の考え方

 過日京都市の大寺「東本願寺」で朱印をお願いしたところ「当寺ではやっていません」と断られました。以降浄土真宗のお寺では朱印の習慣がないものと考えていましたが、このリーフレットを入手して「真宗大谷派」の公式な考えに基づいたものと理解しました。
但し、私はこの考え方は納得出来ません、何故なら一度貰えば二度とお参りしないとのことですが、現実には西国観音巡りや四国八十八ヶ所巡りを何度も繰り返し巡っている方も多いようです。
 
 お寺は来る人の動機に拘わらず、お参りする人を拒まず、大きな包容力で迎え入れ仏の道や宗派の教えを広く伝えていくのが望ましいのではないかと考えます。単純に朱印を収集することに喜びと楽しみを感じている者であっても参詣する時には真摯な気持ちで合掌します、それが信心の切っ掛けになればそれなりに意義のあることではないでしょうか。