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(6) 御朱印について
朱印をしない理由 (浄土真宗本願寺派))
 
前項(5)に於いて「真宗大谷派(東本願寺)が朱印を発行しない理由を調査記載しました。
更にこの項では同じ浄土真宗ても派の異なる浄土真宗本願寺派へ電話で問合せました。
文書で回答するとのことで、約一ヵ月後に教学伝道研究センターから丁重な回答を頂きました。
下記の文面がその回答であります。

 慈光照護のもと、ご健勝にお念仏相続のこととお喜び申し上げます。
 さて、先日ご質問されました左記の項目について回答いたします。

『ご質問』
浄土真宗においてご朱印をしないのは何故か。

『回答』
 いわゆる「ご朱印」の源流は、「納経」という習慣に求めることができます。
「納経」について、中村元著『広説 仏教語大辞典』中巻(東京書籍株式会社)には、次のように説明されています。
  
 追善供養のため、経文を写して諸国の霊場に納めること。経典を土中に埋める埋経のことはインド以来行われ、この思想から神社・仏寺に大経蔵を奉納することが平安時代末期から盛んとなり、『大般若経』や『法華経』の例が多く、厳島神社の平家納経は美術的にも著名である。江戸時代は全国六十余州の代表的な寺社に一部の経典を納め、その受取をもらう風が盛んとなった。後に経典の携帯の不便から金銭を奉納してこれにかえ、納経堂に仏号・月日・寺号を記入し、三宝印・寺印を受ける風習が起こった。集印帖はこれが変形したもので、やはり納経と称する。(一〇八八頁)

 追善供養のために経典を納めるということは、自力の善根を他者に振り向けようという行為です。
 しかし、浄土真宗では、煩悩をそなえた凡夫である私たちの自力の善根は、どれだけ積み重ねたところで、自分にとっても他者にとっても、まったく利益とならないと説かれています。
浄土真宗は、自力の善根によっては迷いを離れることのできないこの私が、阿弥陀仏の救いにあずかって、この命が終わればすみやかに浄土へ往生して仏と成る身に定まらせていただく教えです。
阿弥陀仏の救いは、仏から私に一方的に向けられているのであって、私が何かと引き替えに手に入れるというようなものではありません。ですから、祈祷や追善供養などは、浄土真宗では行われないのです。

 浄土真宗において「ご朱印」を発行しないということの根拠には、このような浄土真宗の教えがございます。

 以上、誠に簡略ながら回答いたします。

  平成十八年二月二十日(月)
  教学伝道研究センター
当研究所の考え方

 今回の回答は、前項の「真宗大谷派(東本願寺)」の朱印を発行しない理由とは少し趣が異なり、浄土真宗の教義から説明されているように考えます。納得するにしても、反論するにしても当研究所の知見は少々貧しく、よって今回はこのような考えに基づくものであると記録することに留めることと致します。
ただ、同じ浄土真宗の寺院でも「参拝記念」と称して「朱印帳」に形式に拘らない墨書押印をされる場合もあり、それはそれなりに価値のあるものと考えています。